転職事例/出向・転籍・退職の場合

現役転職コンサルタントが執筆します。

はじめに/大変な時代

by tensyoku on 2014年4月2日

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勤めている企業に事業がなくなり、得意な仕事がなくなれば、ほかの企業に移籍して得意分野で実力を発揮する選択が賢明な時代となりました。

企業に残るための新たな職域開拓や職能開発には、たくさんの時間とエネルギーが必要です。しかし、それほど企業は寛容で面倒見が良いでしょうか?

私たちは文字通り大変な時代の転換期に遭遇しているのです。置かれた環境、立場、役割等は、巡り合わせであり試練なのだと達観するゆとりも必要でしょう。

こちらのサイトでは転籍や出向を契機に転職を決断された方の事例をご紹介していきたいと思います。

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転職事例6/料理の腕も上げ単身赴任もエンジョイ

by tensyoku on 2014年4月19日

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「この“じごぼう”(なめこ茸によく似たきのこ)は茄子と一緒に味噌汁にすると美味しいんですよ」

秋空の下、ゴルフをプレイしながら、カラマツの木立の中で日焼けした井上孝の大きな声が聞こえてきた。この日は、出向元の役員と出向先の社長をまじえた懇親のゴルフだった。

井上は、家族を千葉市に残し、単身で長野県にある現在の会社蓼科プラスチック株式会社に出向して五年になる。

平成元年秋、取締役に就任し、技術部長として新規技術開発・若手の育成指導および社長の片腕として、大車輪の毎日である。

昭和46年に大学の博士課程を卒業した井上は、大手石油化学会社に入社。10年間、加に研究に従事した。その後営業課長になり、新しい顧客開発、それに伴う製造プラントの増設耐山立案等を手がけ、順調に昇格していった。再び研究に戻ったが、この頃から、周囲になんともいわれぬ違和感を覚えるようになった。

案の定、次の年、昇格が見送られ、ついにはライン部長をはずされることになった。それまで座っていた座席には後輩の部長が座り、自身は部長職ながら特命事項担当となり、図書室の片隅に机を与えられて時間を持てあますような、満たされない毎日を過ごすこととなった。

そんな折、井上は本社にある人材開発室を訪ね、昔の仲間の菊池伸郎に今後の自分の身の振り方、活用してくれそうな会社について相談してみた。

「井上さん、長野県にあるプラスチック加工会社の社長にお会いになってみてはいかがですか。社長はあなたのことをよくご存じですから、何か相談にのってくれるかもしれませんよ」

井上は一人で会社を訪問すると、井上の置かれた状況を知っていた先方の社長から、「井上さん、うちの会社に技術部長として来てくれませんか」と声をかけられた。単身で赴任し、今年で15年になる。

出向当初は大企業と中小企業の文化の違いに戸惑った。出向後しばらくして、出向元の会社の営業グループが菊池のところに来て、「どうも、井上さんは浮いているようですよ。ときどき居眠りしていることもあるそうです。一度フォローしてくれませんか」と報告して帰った。

菊池も、それとなく出向先の社長に様子を聞いてみたが、「大丈夫。心配することはありませんよ」という言葉が返ってきた。

一時期そのようなこともあったが、その後組織もすっきりし、井上は豊富な知識と経験を駆使し、地道にプロパー社員との融合に努力した。また、彼の持ち前の明るさが武器となり、社長はじめプロパーの役員、社員、顧客の信頼を得て、その後、同じ会社から後輩が10人出向してきた。

この会社は、グループ全体で従業員330名の加工メーカーで、10名は、それぞれ品質管理・工場管理・業務部・営業部の各部門で活躍している。

井上は仕事の傍ら、春には山菜を、秋にはきのこをとり、山菜料理・きのこ料理の腕を磨き、肉じゃが、手打ちそばなど20種類を超えるレパートリーを持つほど料理の腕前をあげた。「これで老後は心配ないわね」などと、妻からは変な誉められ方をされている。

旬の材料をふんだんに使った料理に腕をふるっては仲間を呼び、うまい酒を用意し、八ヶ岳を眺めながら飲み明かすなど、諏訪市の自然を満喫している。

常務取締役に就任し、技術部門の最高責任者として、海外を含めた全工場を飛び回っている。井上は、最近次のように菊池に心境を詰った。

「ここの土地は、風光明媚な所も多く、何よりもこの会社は、好きなように仕事をやらせてくれるので、社員も家族も幸せになれるように、私を含めた10人はこれからもここで頑張ります」。

参考にしてみてください。

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転職事例5/努力と実績で転籍に成功

by tensyoku on 2014年4月3日

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「もう少し上手く転職をすればよかった」

田中幸次は、松江市内のビル管理会社「高月興産」を定時に出て、松江市内の自宅に午後七時には帰る。

それからゆっくり風呂に入って、八時前には家族そろって食事につく。家族そろった団梁で、風呂上がりのビールはまた格別だ。

田中は、鳥取の大学の電気工学科を卒業し、同年大手化学メーカーのB化学に入社した。入社当初は鳥取本社の工務部で、全国各地に散らばる工場の電気計装の設計および建設に従事していた。特に建設関係では、各地の工場に出張のため、家を空けることもしばしばだった。

入社後10年を経過した頃、千葉の工場に第一工場建設計画が持ちあがり、田中も電気計装のプロフェッショナルとしてその建設プロジェクトに参加することになり、千葉県へ転勤した。

当初は建設プロジェクトも2年という短期計画で、また、長女が地元の有数の私立小学校に通っていたこともあり、単身赴任することを決めた。しかし二年間の単身赴任のつもりだったものが、実際には10年近くにもおよんだのである。

工場建設は順調に2年間で終了したものの、立ち上げに計装類のトラブルが続出、その修復に時間がかかったのだ。さらにまた、田中の電気計装の知識力が買われ、千葉工場全体の保全部の電気計装担当者として残ることになったのだった。

そのときには前述の長女も中学生で、ますます千葉県への転居はむずかしくなり、単身赴任を継続しなければならなかった。

ただ幸いなことに、単身生活は比較的快適だった。現場近くに単身赴任用の寮が完備しており、食事も祝日以外は朝晩出るし、自室の掃除と洗濯をするくらいのもので、そう苦にはならなかった。

大変なのは実家への帰省だった。会社からは月1回、帰省費用が出るようになっていたが、時間的にも金銭的にも、月1回の帰省が精一杯だった。中学生の長女はそろそろ父親離れしてきたが、小学生の次女はまだまだ父親にベッタリで、それがまた可愛くてたまらなかった。

仕事は順調に推移し、電気計装保全のプロフェッショナルとして、千葉工場全体の保全部長を務めるようになった。

ところが田中はこのまま家族と離ればなれになったままでいいものかと迷いはじめていた。長女は大学生、次女も高校生になり、いちばん父親を必要とする時期に差しかかっていた。

「なんとか鳥取に帰る術はないものでしょうか」。同期入社の人事部の司信也に、とうとう思い切って相談した。

司は「社内ではむずかしいが、社外への出向を厭わないのなら」と、ある大手企業の子会社で、ビル管理会社の高月興産を紹介してくれた。

田中は悩んだ末、その夜、家族と相談した。家族はみんな、出向ということで篤いた。出向といえば今盛んに新聞紙上で話題になっているリストラという暗いイメージがつきまとう。

田中は、自ら進んで転進して行くのだと家族にも、そしてまた自分にも言い聞かせる毎日だった。

高月興産に出向してからの田中は猛烈に働いた。同社は社員のまとまりのよい会社で、その分出向若への風当たりが強い職場だった。おまけにビルの管理軒数も増え、ビルの、電気系統のトラブルも続出していた。田中はこれまでのキャリアを活かし、増大しているトラブルの原因解析を行い、技術者として真面目にこのトラブルと取り組み、かつてないトラブル減少の実績を残した。

風当たりの強かったプロパーの社員も皆、田中を認めるようになった。B化学の転進促進制度による退職金上乗せを適用されて、田中は高月興産に転籍した。そして、家族と暮らせる幸せを手中にしたのだ。

まとまりの強い会社への出向・転籍では、得てして排他的な攻撃にあいがちで、定着への努力が一段と要求されるが、田中の事例は、本人の努力と実績が解決の糸口になったと思われる。それよりもまして、家族と暮らす幸せを何よりも第一優先にした田中の決意がそうさせたのではないだろうか。

参考にしてみてください。

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